春寒

春寒や自分のための厨ごと    稲畑汀子

4月だというのに真冬並みの寒さにびっくり。地元の群馬では、雪が積もったと聞いた。

厨、つまり台所というのは家の中でもとかく寒い場所だと思う。そんな厨が「自分のため」であることは、厨しか居場所がない、厨にいなければならない妻あるいは母という役割に縛られている、そんな叫びが聞こえてきそうな一句だ。「すでに春になった気分が強い」ところにくる寒さである春寒の季語がよく効いている。

落花

遅れ咲きいまの落花に加わらず    山口誓子

この間、同じ地域に咲いていても、木によって開花時期や散り時が違うのはなぜだろう、という話題が上がった。年齢だろうか、土の質だろうか。木にも個性があるようだ。

掲句は、そんな個性を表しているかのよう。あえて今咲いているのよ…そんな木の声を代弁しているのかもしれない。事実の捉え方、描写がぴたりとはまっている一句だ。

 

春めく

春めきてものの果てなる空の色    飯田蛇笏

暦の上ではとっくに春だとわかっていても、実際に春を感じられるのは、菜の花やパンジーが咲いていたり、厚いコートを着なくてもよい日和になってからだったりする。

「ものの果てなる」という中七が不気味な一句。冬の名残か、それとも春ゆえの愁いを詠んだものか。前者なら見事な写実だし、後者なら春の期待と不安が入り混じった内情をよく表していると思う。

彼岸

竹の芽も茜さしたる彼岸かな    芥川龍之介

父母が地元を遠く離れていたため、彼岸に墓参りをしたことがない。一度くらいしてみたいものだ。

出たばかりの芽は暗めの赤い色であることが多い。竹の芽も例に漏れず、茜色を帯びていたのだろう。「茜さしたる」という視覚の切り取りもさることながら、「も」の一音だけで春のにぎわいが増している様が見事。

鳥の巣

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ    波多野爽波

家の前に鳩が巣を作った。しかし、ここ数日鳩の姿を見ていない。どうやらここに住まうことは諦めたらしい。観察する気満々だったのに、残念。

掲句は、一見短い散文のようだ。俳句たらしめているのは、やはり五七五の定型によって、最後がしっかり切れていることではないかと思う。だからこそ余韻が生まれ、鳥が入っていったあとの姿まで想像が膨らむのではないだろうか。

蔵王脊に蒜洗ふ夕まぐれ    蓬田紀枝子

今日、初めてニンニクの芽を食べてきた。苦くてびっくりした。春のものはなぜこうも苦いのか。

東北を東西に分かつ蔵王連峰。掲句では、その巨大な対象からニンニクという一気に小さなものへと移り変わる視点の切り替えが、懐かしい風景の中に組み込まれている。